山好きオヤジの独り言

山の思い出や日々の事を書き留めています。

鳥取にもゆかりのある鍵屋の辻の決闘

1634年の本日(寛永11年11月7日)、鍵屋の辻の決闘がありました。


曾我兄弟の仇討ち


赤穂浪士の討ち入り


に並ぶ日本三大仇討ちの一つと言われていますが


その起こりはろくでも無い話です。


岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫


これに藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫り、


拒絶されたため逆上して源太夫を殺害してしまった。


いわゆる男色のもつれです。


ろくでもない男色野郎の又五郎は脱藩して江戸へ逐電、


旗本の屋敷にかくまわれた。


激怒した岡山藩主は幕府に又五郎の引渡しを要求


匿った旗本は旗本仲間と結集してこれを拒否し、


外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展。


2年後岡山藩主は疱瘡のため急死した。


よほど無念だったのか、バカだったのか死に臨んで又五郎を討つよう遺言。


岡山藩主急死により幼少の長男が跡を継ぐが


幼少藩主では要衝の岡山を治めきれないとして


鳥取藩主が岡山へ


岡山藩主は鳥取への国替えを命じられます


この幼少の藩主池田光仲こそ


鳥取藩の祖となります。


幕府は旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定。


主君の遺言による上意討ちの内意により


源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれ


剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼


2年後、伊賀路の鍵屋の辻で


総勢11人の又五郎勢に4人の数馬勢が襲いかかり


見事に又五郎を討ち取りました


数馬らはしばらく伊賀の藤堂藩に預けられ


4年度鳥取に凱旋しています


荒木又右衛門の墓は鳥取市内に現存しています。


有名な仇討ちですが


ろくでも無い輩が引き起こしたものです。


男女もそうですが


男色のもつれ


嘆かわしい事件でもあります。

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