山好きオヤジの独り言

山の思い出や日々の事を書き留めています。

亡き父の思い出

本日は、亡き父の誕生日です。
生きていれば96歳です。
父は千坪の家屋敷、借家、株式などの財産がある裕福な家庭の子でした。
祖母が40歳の時の子で幼い時に兄が亡くなり、姉3人と祖母に大事に育てられた人でいわゆるボンボンです。
役者になりたくて日本大学の芸術学部の演劇科を受験して行こうとしたところ、祖父の逆鱗に触れて、仕送りしないと言われ、やむなく美術科に転籍したと聞いています。
地廻りの役者になるのか、美術は崇高な物なので演劇はダメだが美術ならよろしいとの祖父の許しを得たようですが、簡単に転籍出来たんですね。
医学部に行けと祖父から言われ、帝大を受験したが落ちて祖父に浪人して帝大を目指せと言われたが日大に行ったそうです。
後の鳥大のような地方の医学専門学校なら合格できるが帝大医学部は難しいというレベルだったそうです。
そして雨の神宮外苑を行進して学徒出陣になるんですが、生まれ月に赤紙が来るんで父の同級生は昭和19年4月から出陣して行き、父は20年1月に出陣しました。
丸亀の師団に集合して貨車に乗り、一部は新居浜から船へ、父達の貨車は高知へ向い本土決戦に備える。
かなり運の良い人です。
今も昔も4月生まれの方が成績が良くて、3月の方が悪い。
父の旧制中学の同級生のうち東大、京大、陸士、海士に進んだ優等生のほとんどが戦死、父も4月生まれなら生きてないと言っていました。
1月生まれ招集者も船に乗せられ者はどうなったのか?
目的地に到達する前に潜水艦にやられるか、沖縄か、かなり生存率は低くなっていたでしょうね。
貨車に乗っている時に機関車が苦しげな音を立て始めて、「おい、四国山脈を越えているんじゃないか、オレ達は助かったぞ!」と誰とも無く叫んで喜んだと酒の席で聞きました。
父は戦争で運を使い果たしたのか、事業で失敗して、祖父の残した財産を手放し、再就職先の給料も4分の1を差し押さえられましたが、毎日安くて美味いものを探して手料理して酒を飲んでました。
ボンボンで人が良く、誰からも愛される父でしたがサラリーマンは良いが、事業家は無理だったんでしょう。
豊かじゃないけど幸せだっかのかなと思える後半生です。

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