山好きオヤジの独り言

山の思い出や日々の事を書き留めています。

女性が賠償代わりにされた宋

本日は、1127年、宋の首都開封が40日間の攻防ののちに金の軍勢によって陥落した日で「靖康の変」と言われています。
首都陥落後、財宝等は金軍の略奪にあい、宋の皇帝と上皇他、多数が捕虜として金に拉致されています。
敗者である宋と金の将軍との交渉で、宋は黄河以南を領有を許される代わり、宗室の女性を捧げ、銀200万両・絹200万疋を毎年献上することとなりました。


4~28歳までの11,635人の女性が北方へ拉致されています。
その内訳ですが、妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、宋姫52名、御女78名、宋室に近い姫195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宋婦479名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性3329名となっています。


女性達は、それぞれ金額がつけられて将兵への戦争報酬として与えられ、その他は官営の妓院である洗衣院の娼婦にさせられています。
幼い女性も洗衣院で育てられた後、金国人の妻妾か、娼婦になっています。


宋は文治政治を取り、軍事力が弱いため、遼や西夏の侵入に対抗できず、銀・絹を送って和を結んでいた。
金によって遼が滅び、遼に送っていた銀などを金に送る約束をしたが、これを守らず、怒った金が軍を南下させると領土割譲と賠償金の支払う講和を結んだが、これも守らなかったために金に攻められた結果です。


中国の歴史には悲惨なものが多いのですが、これも悲惨です。
首都が征服されても王朝が残ったので詳細な記録も残っているんでしょうが、王朝が代わった場合は勝者に都合の良い歴史が残るので、こういう事は余り目にしないのですが、ここまで酷いのは無いように思います。


宋は軍事力にお金を使わずに経済的に発展して文化は繚乱の極みを見たと言われています。
今の日本にも重なるものがあるように思います。
黄河の南で生き残った南宋もモンゴル帝国に滅ぼされたようなことにならないことを祈っています。

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