山好きオヤジの独り言

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皇帝が捕虜となった土木の変

本日の出来事で目を引いたのが「土木の変」です。


中国明王朝の正統帝(英宗)が侵攻してきた北方民族を撃退するために遠征したんですが、
大敗を期して、皇帝も捕虜になるという東西古今でも珍しい事件です。


北方民族の侵攻は、明との朝貢貿易でのトラブルと明の皇女と北方民族の王との婚姻の約束を明の通訳官たちが独断で約束したものとして拒絶されたことにあります。


英宗は父皇帝の死により9歳で即位しましたが、即位時は有能な官僚による安定した政治がなされておりましたが、成人した頃には彼らが死去したり隠退したりしたため、自らの家庭教師であった宦官の王振の専横を許すことになっていました。


この王振の専横により朝政は弛緩し、国内では社会不安が高まって反乱が勃発し、明国内の混乱に乗じ北方民族がしばしば長城を越えて明へ侵入してきました。


この時期の北方民族の中で強大な政治勢力が成長し、明との朝貢貿易による利益確保と、それを利用した政治体制の強化を目指し、明との交易交渉が決裂したことで明領に本格的に侵攻してきました。


対する明は、宦官が号令して皇帝を担いで親征したものの、武官達との間がうまくいくはずもなく、北方民族に大敗を期して、皇帝が捕虜となってしまいます。


当然、北方民族は、皇帝を捕虜にして首都である北京に押し寄せて、多額の身の代金を要求します。


北京では皇帝捕わるの報で動揺が走りましたが、有能な文武の官僚が皇帝の弟を景泰帝として即位させ、英宗を太上皇として人心の動揺を収めてしまいました。


北方民族軍は皇帝を人質としたまま北京を攻撃しましたが、人心を納めた能吏達は住民の協力を得て北京を防衛することに成功し、北方民族は皇帝を連れて北方に撤退した。


その後、明廷は、外交により英帝を無条件で釈放させて帰国させています。


英帝は捕虜とは言いながら好待遇を受けており、明に帰国すると太上皇として南宮に幽閉されました。


ところが、景泰帝が7年後に病でなくなると、宦官が太上皇を担ぎ出して政変に成功し、北方民族を退けた能吏を処刑して、元の不安定な政治に戻ってしまいました。


明の6代、8代の英帝は暗愚であるとの評価があります。


幸いにして日本には宦官の制度がありませんが、なんともおぞましい人達です。


本日の出来事を見て、日本は平和で良い国なんだなと改めて思った次第です。

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